
[財津家のルーツは?!]

親からは何も聞かされていない。

和夫は、終戦直後に生まれて
戦争前は朝鮮半島にいた。

引き揚げてすぐ福岡い住みついた。
[財津和夫の出身地・福岡へ!]

まず訪ねたのが、兄三郎さんの家

和夫の兄 財津三郎さん。

ある古い記録が見つかる。
こういう機会がなかったらまず探すこともなかった(三郎さん談)

民平とは父方の祖父 緒方民平。
財津という姓は、和夫の父・國平がのちに養子になってから名乗り始めた。

民平は勤務先を年代順に事細かに記していたが、その詳細を家族に語ることはなかった。

背筋をピンとして、お侍さん。簡単におじいちゃんと言える関係にはなれなかった。(三郎さん談)
[祖父・民平の半生をたどる 熊本~全国勤務の公務員時代 ]

4月の大地震で壊滅的な影響を受けた熊本のシンボル熊本城。

城の近くに暮らしていた緒方家。
民平は幕末の慶応三年 熊本藩士の家に生まれる。

熊本県立図書館

明治七年に記録された有禄士族基本帳

民平の父の名前 緒方小平太の名前があった。

資料には士族の俸禄(給料)が記録されている。
元高十石とある。
ラクでないことは確かですね。(大阪大学名誉教授 猪飼隆明さん談)

明治10年 西南戦争勃発。
城下にあった緒方家は焼失。

二年後の明治12年、父・小平太が亡くなる。

一家は困窮。
民平は小学校に通うこともできず、学校の窓の外から聞き耳を立てていた。
一人の教師が声をかけてきたので、民平が事情を話すと
『学校で勉強してみないか?』と言われる。

その教師の特別のはからいで小学校に通うことができた。
その時、民平は13歳。(明治13年)

卒業後19歳で警察官になり日本各所で勤務。

日本全国回っているのを初めて知りましたよ(和夫の兄・三郎さん談)

明治31年 妻・とし と結婚。

民平は 明治31年5月 文官普通試験(今の公務員試験)に合格。
32歳で熊本県の役人に採用(明治32年 1899年)

ボーナス制度は昭和の第二次大戦期ぐらいにできた。
このときの賞与は特別な人にしか与えられない。
どこに行っても受けているということは、それぞれの場所で頑張って、上の人から認められたということ、と推測される。
(早稲田大学政治経済学術院教授 稲継裕昭 さん談)

各地を転々とし、公務員として懸命に働いた民平。
そのうち、農業をやりたいと思うようになった。
[祖父・民平 朝鮮半島へ移住]

明治41年 40歳を過ぎて決断。

民平が向かったのは朝鮮半島。
日本人の移住が始まっていた。

移り住んだのは南部の都市クァンジュ(光州)の近く、ナムピョン(南平)という農村。

終戦前には500人ほどの日本人が暮らしていた。

日本人の暮らしたあとが街の中に残っていて、これは昔の日本の家具店。
代々この地で暮らす イ・パンチュンさん。
オガタという名前は知らないが、ソバンという名前は聞いていた。

ソバンとは緒方という漢字を韓国語読みしたもの。
ここで広い農地を所有していたと幼いころ聞いたことがある。

緒方さんの家があった場所。
民平は水を確保しやすい土地を手に入れ開墾する。
リンゴや柿などの果物、キュウリやナスなどの栽培と養蚕を始める。

日本人が桑の木を植え、梨やキャベツを栽培し この土地を開拓した。(街のおじさん 談)

民平の農場で働いていた リン・ホンファンさん(96)

緒方さんは 働いた賃金を踏み倒すことはなかった。

民平との会話のやりとりも覚えていた。
『どこ行きますか?』
『光州行くんだ』
よい背広を着てでかけて行った。


ナムピョンでの開拓に乗り出した明治42年、民平の次男、のちの和夫の父になる國平が生まれる。

民平は他の日本人と資金を出し合い小学校を設立。


その学校を運営する責任者も務めた。

新たな駅の誘致にも奔走する。

駅舎の前には当時植えられた桜の木が一本ある。
95年くらい前。

長崎県 佐世保市 安達義元さん(93)
かつて民平の自宅近くに住んでいた。

日本人が暮らしていたころのナムピョンの地図を保管していた。
民平の家はかなり大きく、町内の顔役だった。(安達さん談)
広大な土地を所有し、地元でも有数の農場経営者になっていた。

民平の口癖 肥後もっこす。(安達さん談)
熊本県出身の頑固者という意味。


熊本県立図書館 マイクロリーダー
民平の活躍ぶりを知らせる新聞記事が見つかる。

大正九年 墓参りにふるさとに帰った時、取材を受けたもの。

朝鮮で大成功を収めた緒方民平氏。
汗と力によりて今日の富を作り得たる。

朝鮮で成功を収め、その地で生きていくと決めた緒方民平。

二人の息子のうち長男の公平は医師を目指し、医学専門学校へ進学。

次男國平は農場の跡継ぎとして地元の農業学校へ進学。


國平が21歳になった昭和5年、父民平から、『これからは財津の名を名乗ってほしい』と言われる。
親戚でもない財津という名前、そこにはある事実が隠されていた。

警察官だったことも全く知りませんでした。
冒険家だったんですね、わりとね。
びっくりしました。
ここが跡地だったという話を聞いたとき、行ってみたいと思いました。(財津和夫談)
[なぜ 父・國平は財津姓を名乗るようになったのか?!]

緒方民平はなぜ、息子國平に財津を名乗れと言ったのか?!

親戚 伯父さん 緒方ですし
なぜうちだけが財津なんだろうと昔から思っていましたが、本当に知らないんですよ。(財津和夫談)

実は親戚の中にそのことを伝え聞いている人がいた。

孫の典子さん。

現在85歳、体調がすぐれないため、代筆の手紙で答えてくれた。
『窓の外から授業を聞きたいと聞き耳をたてていたようです。その姿を知って、民平に授業をうけさせてくれたのが財津さんだと聞いています。』

学校に通えず、窓の外から授業を聞いていた民平。そのとき声をかけてくれた教師の名前が財津だった。

民平はその人の名前を住所録に記していた。
財津永枝(ざいつながえ)
永枝とのこの出会いが民平の人生を大きく変えた。

就学率が半分ほどしかないので、
小学校の学歴卒だって、だれでも持っているものではない。それを持っている、持っていない、という重みは今日の比ではない。(熊本大学教育学部教授 堀浩太郎さん)

民平は

警察官 公務員 と

朝鮮で成功をつかむことができた。

民平は永枝が亡くなる(明治40年12月)まで連絡を取り合い、感謝の気持ちを忘れなかった。

その後、永枝の跡取りが亡くなり家が途絶えることを知る。永枝の恩に報いるため、次男の國平に財津姓を名乗らせることにした。
[財津家とはどんな家なのか?]

そこまでして残したかった財津家とはどんな家だったのか?!

熊本県立図書館

財津永枝の名が記された資料が見つかった。

直筆の履歴書が見つかる。

永枝は江戸時代末期嘉永三年に生まれた熊本藩士。
明治になって教師になった。

財津家に関する興味深い記録が熊本大学に残されていた。

『先祖附』と書いてある。

熊本の家臣全員からそれぞれの先祖の歴史を書かせて差し出させたもの。
熊本大学 永青文庫研究センター長 稲葉継陽さん

先祖代々 大友幕下にて豊後の国日田郡に居住とあるので、この財津家の先祖は戦国大名大友氏の家臣。

財津家はキリシタン大名の大友宗麟に仕えていたといわれる。

熊本市の藤崎八幡宮

この社は、日田社。

肥後藩士の財津さんという名前の家が分社してきた。
権宮司 岩下通弘さん

祭られているのは相撲道の神様

地域の相撲の神として祀られている永季(ながすえ)。
財津家の先祖に当たる。

永季は平安時代、天皇の前で相撲をとり、無敗を誇ったという。

財津一族を取りまとめている、東京在住、岡田善博さんと妻の千晶さん。妻の旧姓は財津。

財津家に伝わる古文書を基に作られた家系図。
相撲の神様 永季。(赤で囲んだところ)

900年後の千晶さん。(赤で囲んだところ)
(和夫は、右下に位置する)
和夫は一員。
びっくりですね~!(千晶さん)

永量(ながかず) 千晶さんの父
となりの永栄(ながひで)(赤で囲んだところ)は、財津一郎。
千晶さんの叔父にあたる。

熊本出身のコメディアンで俳優の財津一郎さん。

高校生の時にチューリップ 財津和夫さんの大ファンで、
中野サンプラザに通いつめたんです。
30年もたって、ここでつながるとは思っていなかったです。感動的です。(千晶さん談)

冗談でつながりあるのではと言っていたことは何度もあるんですけど。本当だったとは。
もう身内になってしまったので、こんなこと言いにくいのですが、ずっと財津一郎さんのファンだったんです。
びっくりしましたし、うれしいです。一郎さんとつながれるなんて。
(財津和夫談)
[父・國平の結婚~長男次男の死と三男の誕生]

父の恩師の姓を21歳から名乗ることになった國平。

父の開墾した広大な農地を受け継ぐことになった。


当時近所に暮らしていた安達義元さん。青年団で國平の後輩だった。
青年団でも民平の息子だからということで副団長になっているんですよ。そうかといってあまり騒ぐような男ではなかったんですけれども。
偉ぶるタイプではなかった、おとなしかった。

國平に縁談話が持ち上がる。
相手の名前は山村サイ。
民平と同じ熊本出身だった。

山村家はたばこを栽培していたが、よりよい生活を求めて朝鮮半島に渡ってきた。
サイが三歳の時だった。


韓国の公文書が保管されている国家記録院

サイの記録が見つかった。
通っていた女学校の学籍簿。

得意科目は音楽と体操。

女学校時代の仲間とか先生方から、民平さんが話を聞いて、これならと思った しっかりした嫁をほしかったんだろう、民平さんとしては。(三郎さん談)

昭和9年 結婚。
國平(25歳)、サイ(21歳)

養蚕や野菜の栽培は順調で、朝鮮の人を大勢雇い、住み込みで働く人もいた。

國平の兄 公平の娘、阿比留靖子さんと千々岩洋子さん。

幼いころ國平たちと暮らしていた。

國平が朝鮮の人たちと出かけるのを見ていた。

おじちゃんはそれこそ山猟とか川漁とか楽しんでいましたね。
あちらの方 たくさん雇うといったら言いかた悪いですけれども、みんな仲良く隔てなく

國平とサイは結婚してすぐ子供に恵まれる。
長男の昭平(あきら)、次男の征雄(ゆきお)

長男 ベタベタの感じ分かるでしょう
よく言うじゃないですか、目に入れてもいたくないっていう。
(三郎さん談)


國平は子供たちの成長を写真におさめていた。



しかし幸せな日々は長くは続かなかった。
6歳の昭平が、腸の病気で入院した。
國平は毎日病院に通った。

祖父があんまり留守にするので(國平に)なんか言ったらしいですね。
そんなに行かなくていいんじゃないかというようなことを。
親からそんなに言われて反発したいけれど、それもできないという感じで、もう仰向けにバーンと座敷に。
苦しんでいたのかな。(洋子さん談)

國平やサイの看病もむなしく、昭平は小学校入学前6歳で亡くなった。

地域をあげての葬儀が盛大に行われた。

國平は棺の前で悲しみをこらえる。

さらなる悲劇に襲われる。
二年後、次男の征雄が赤痢で亡くなる。
4歳だった。

なぜ、幼い息子を死なせてしまったのか。
三番目の子供にはそれまでと違う名前の付け方をした。

すごく名前にこたわって命名しているでしょう。
結局二人を若死にさせたのは名前が良すぎたからという理解になって、
三番目はとにかく三番目の男というふうに名前をつけたと聞きましたけど。
(三郎さん談)
[終戦 一家の日本引き揚げ~祖父・民平の死]

昭和20年 終戦
時代は大きく変わる。
朝鮮半島にいた日本人は引き揚げを余儀なくされる。

民平はかたくなに帰国を拒んだ。

自分はこの地で死ぬと言って聞かなかったらしいです。
だけど家族じゅうから説得されて、やっと帰る気になったと。(三郎さん談)

終戦から三か月後、一家はナムピョンを去ることになった。

働いていた朝鮮の人たちに、國平とサイは、
『家と土地は使ってください。お世話になりました』と言った。

一家を乗せた引き上げ船は釜山から福岡博多港へ到着した。(昭和20年)

船が着いた埠頭から博多駅までずっと焼野原が見えましたね。
朝鮮では空襲とかなかった ああこれが空爆のあとかと。(洋子さん談)

70歳を超えた両親、そして妻や子供たち

その生活を一身に背負うことになった國平は覚悟を決めた。

それまでの生き方はかなぐりすてたと思いますよね。
民平さんがゼロからやり直したように、自分でも引き揚げてからゼロから。(三郎さん談)
國平が見つけたのは開拓農場の仕事だった。
開拓農場は引揚者の雇用確保などの目的で作られた。農場は博多湾の埋め立て地にあった。
國平は倉庫を家族が住めるように改造、ドラム缶の五右衛門風呂も作った。


昭和23年 財津家に男の子が生まれた。和夫。

國平は開拓農場の一角である仕事を始める。

米軍の高射砲部隊の基地、施設から出る残飯をもらってきてブタに食べさせる。養豚を始めた。三輪の自動車にドラム缶を積んで、残飯を移し替え移し替え、それは大変でしたけどね。
よくこんなもの持てるなと思うものをちゃんと抱えていましたから。
うん、頑張りましたよ。(三郎さん談)

終戦から5年後には、開拓農場内に競輪場ができたため、一家はそこに食堂を開店。

活躍したのが、サイ。
調理師の免許を取るために猛勉強をした。
♪赤痢にコレラに腸チフス~っていう感じ
法定伝染病を暗記するのに何度も何度もくりかえしやっていたから、そばにいて我々も一緒に覚えちゃいましたけど(三郎さん談)

引き揚げてから9年後 自分たちの店で祖父民平の米寿のお祝いをした写真。

波乱の生涯を送った民平は、二年後家族に見守られながら、静かに息を引き取った。(昭和31年 永眠)
[和夫 チューリップで上京]

両親が共働きだったので、一人で過ごすことが多かった和夫。

ラジオから流れてきた、近くの米軍の放送。流行の最先端の音楽にすっかり魅了される。

昭和46年 大学在学中に、バンド チューリップを結成。

翌年、メンバーとともに福岡から上京する決意をする。

東京に行くのも自分で決めたし、親に行くよと言ったのは行く日。
(故郷を)いったん切り捨てましたね。
戻ってこられるっていう気持ちがあると、何か自分の力がでないんじゃないかというのがあったんで。
とにかく切り捨てよう。(財津和夫談)

そんな息子を、國平とサイは黙って見送った。

チューリップの初代ディレクター 新田和長さん。
和夫と初めて会った日のことを鮮明に覚えている。

言葉も丁寧 態度も丁寧なんですよ。
だけど気迫とか、その背後にある強さ
本当 侍の感じだった。

昭和48年 3枚目のシングル 心の旅 が大ヒット。

その後も青春の影やサボテンの花など名曲を次々と生み出す。

いとこの洋子さんと靖子さん
國平とサイのこんな話を聞いている。
ラジオで財津和夫の出る番組をもう楽しみにしていて、
待ち構えるように聞いていたみたいですよ。
ラジオを前において。

福岡の自宅にはいつも和夫の歌が流れていた。

おやじの苦労話というのは、ちょっときますね。
なんだか僕の知っているおやじは、飲んだくれでしたからね。
頑張ったんだなというのは、今改めて分かったような気がします。(財津和夫談)

それぞれにバトンが渡されているような、皆さんが一から全部開拓してません?(司会者)
なんかそういうどこか遠くに行って、なんかやってみたいっていうような そういうのあるんでしょうかね?!(財津和夫)
[母・サイの晩年]

晩年の國平とサイは朝鮮半島で暮らしていたときのことをよく話していた。

家の敷地内で暮らしていた朝鮮人の名前がたびたび登場するのを、三郎さんは覚えている。
どんな字書くのかわからないけど、発音だけでいくと、ハクチュンとかクミシギだったかな。
二人の名前は、夫婦の國平とサイの会話の中に、よく出ていましたね。(三郎さん談)

ハクチュンさんの娘が見つかった。
両親が國平さんの家で養蚕をしながら私たちを育ててくれました。。(キム・スングムさん)
ハクチュンさんは50年ほど前に亡くなったけれども、國平とサイのことをよく話していた。

ナンピョンの近くに住んでいたクムシクさんの娘と孫に会うことができた。。

28年前に亡くなったクムシクさん

クムシクさんは、水をくむ機械で足を怪我したが、医師が足を切断しようとしたが、駆け付けた國平とサイが必死に懇願して切断せず治療することができた。(クムシクさんの娘談)

ナムピョンを去るとき、國平とサイは、土地と家をクムシクさんに託した。家族は30年ほど前までここで暮らす。

國平たちが暮らしていた時代を描いた水墨画

亡くなったクムシクさんの長男が記憶を頼りに絵にして残した。

孫のシン・ドンソンさん。。

一度会って顔を見てみたいです。

クムシクさんから託された水墨画

絵の中のもしもこれが國平とサイだったらすごいよ。(三郎さん談)

晩年のサイさんは介護施設で過ごしていた

サイさんのリハビリ担当室園和宏さん


リハビリの合間にピアノをひいた。
アリランをひいた。
サイさんはいい表情をしていた。

激動の新天地で生きた家族の姿があった

おやじとおふくろはよく頑張ったな。